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2006年 11月 28日
一般言語学第二回講義―リードランジェ/パトワによる講義記録 小松英輔 ほか編訳 エディット・パルク
著者 フェルディナン・ド・ソシュール 編者 小松英輔 訳者 相原 奈津江, 秋津 伶 出版社 エディット・パルク 定価 3675円(税込み) 記号学の誕生と構造主義への疑問符。待望久しいリードランジェのノートの後半「一般言語学の序論としてのインド・ヨーロッパ言語学の概要」、及び新発見のパトワのノートも初訳。 ある特有語のいくつもの状態を順を追って研究することは、通時的なものの中を動き回っていることではありません。例えば、第一巻で古アングロサクソン語を研究し、そして別の巻は別の時代の英語を研究して、英語の歴史文法を作り出していると信じているような人たちの犯す間違い……。 (リードランジェ) 例えば、文法は、格の諸形態の機能に関わっている。形態論とは、これらの諸形態の状態を確立させる。この区別は、根本的に錯覚である……。 (パトワ) 訳者あとがき ソシュールは相変わらず誤解され続けている。最近の入門書や新書版を見ても、その誤解の徹底ぶりには驚くほ かない。ソシュールが「構造」を無視しているにもかかわらず、構造主義の始祖として評価する人たちがいる。しかし、「構造」からは単位や価値だけでなく、その変化さえ導き出せないだろう。例えば、次のような意見がある。 「言語は歴史を持っている。そして、それを無視した出来事が、多くの間違いをもたらした。今日では、その逆である。言語の時間の関係との関係は、その事柄の二重の性格を改めて気付かせる。言語と言語の歴史は、複雑極まりないものと時間の中を進んで来たものとの関係であり、完全に区別をつけるのは困難である」。 正当な反歴史主義批判と言えよう。しかし、これが即、ソシュール批判だと言えるだろうか。というのも、一般言語学第二回講義の初日、1908年11月5日、パトワによって記述されたソシュール自身の講義(199頁)だからである。ソシュールへの無理解は、言語なるもの la linguistique が、言語学 la linguistique が理解されていなかったことを意味する。責任はセシュエとバイイだけにあるのではない。新資料が発見されながらもそれを無視し続けてきた人たち、新資料を知りながらもそれがセシュエ・バイイ編の『一般言語学講義』にどのように編集されているかだけに関心を示す人たち、要するにすでにバイブルが存在し、それを中心としてしか新資料が理解されてこなかったことにある。周知の通り、ソシュールは『一般言語学講義』という書物をしたためなかったが、ジュネーヴ大学の要請により、第一回講義(1907年)、第二回講義(1908~1909年)、第三回講義(1910~1911年)を行った。学生たちを前に自分の考えを述べ、検討し、発展させたのである。セシュエとバイイは参加した学生たちのノートを元に編集、というよりも本人たちの弁によれば「再創造」によって『一般言語学講義』が成立したことは、今日ではよく知られた事実としてある。リードランジェのノートの冒頭を見よう。 「言語学はその原理、その方法、その全体の探究において、まったく単純ではありません。というのも、言語が単純ではないからです」(13頁)。言語をソシュールに置き換えて読んでも間違いではない。ソシュールに対する誤解とは、彼の考察した言語に対する誤解に他ならないからである。「ソシュールはその原理、その方法、その全体の探究において、まったく単純ではありません。というのも、ソシュールが単純ではないからです」。ソシュールは講義を続ける。私たちも置き換えを続けよう。「ソシュールは厄介なコントラストをなしていて、片方だけでそれを捉えようとする人には、不安定なパラドックスを差し出します」。 学生を前にした第二回講義の中で、ソシュールは当時の言語学とそれぞれの権威者に対し、名前を挙げて戦いを挑んだ。夏季講座の「一般言語学の序論としてのインド・ヨーロッパ言語学の概要」によれば、今までの言語学の誤りは、1.「重要性が誇張されて、完全に間違った役割がサンスクリットに与えられた」ことであり、そこに見られる言語の古さについての誤解を三点挙げている。2.「歴史的な結論を避けるために、二茎の植物、二本のモミの木の成長のように、二つの言語の発展が較べられてきた」比較言語学の間違い。3.「言語においては何ものとも対応していなくて、言語活動においても存在できる諸条件の外にある概念全体が、単なる比較的なこの方法から生じていて、その結果でもある」ことの指摘。「それらは他から来たのかもしれません。言語の外で汲み取られた哲学的な観念なのです」。4.「インド・ヨーロッパ言語学の初期の全体が、エクリチュールから不完全にしか解放されていなかったこと」。5.言語の類推的創造を理解していなかったこと。言語単位に対する無知であり、そこから、6.方法の欠如で、「対象の性質というもの、その対象の性質が含んでいる諸現象の性質の、正確で明晰な観念を抱かずには、方法に至ることが出来」ないことを指摘し、7.「最も古くから知られていた語派が、まるでグループ全体に相応しい代表のように、まるでグループ全体と置き換えられるもののように」見られていたこと。8.「言語自体の外側で、言語学に与えられた領域に関する誤り」で、「語源学の不確実さ」と「人々の住環境が変わるとともに、意味を変化させる諸語があり得る」ことを挙げ、最後にドイツ青年文法派の音声法則の絶対性を批判している。これら9点のどれもが今日もなお克服されているとは言いがたい。 例えば、「日本語」を一本の樹木のように見立て、その永遠の種子を探そうとしたり、文献を持つ関西語派を「まるでグループ全体に相応しい代表のように、まるでグループ全体と置き換えられるもののように」思い、挙げ句は、書かれたものと話されたものが混同するどころか、一体のものとして「日本語の歴史」を記述する者。だが、そもそも「日本語の歴史」は通時的に存在可能なのか。「通時的であることは、そのような特定化を必要としないだけでなく、容認もしません」(65頁)。言語の中に奇怪な、哲学的な観念が持ち込まれているのは相変わらずで、類推的創造を間違いだと決めつける規範文法が、こともあろうにソシュールの共時言語学の名で通用していたり、外的言語学と内的言語学を混同し、風土こそが言語単位の価値の源泉だと言い張る者もいる。「風土」とは「血」と同様に実に絶妙、かつ危険な言い回しである。だが、「外的な一つひとつの事柄は、価値を変えられる範囲内でしか、理論としては考えるべきではありません」(60頁)。 「一般言語学の序論としてのインド・ヨーロッパ言語学の概要」のほとんどが、読まれる通り、セシュエ・バイイ編の『一般言語学講義』に切り張りされていて、6.の方法に対する欠如の批判こそが11月5日からの講義、「一般性」として展開された内容だと言うことが出来るだろう。そこでのソシュールの「言語学」に対する批判は容赦ない。言語学の名で語られる生理学、心理学、民族学を批判する。音韻論を二次的な学問として退ける。文法、意味論、形態論、語彙論、統語論等の区分の愚かさを指摘し、語、句、文等を言語単位のカテゴリーとは認めない。「具体的な出来事を語ろうとすれば、汎時的な視点はありません。これこそがまさに、言語なるものと言語ならざるもの、すなわち汎時的と考えられるものを区切るものです」(70頁)と空虚な一般論でしかない汎時的視点を退ける。 「多くの言語学者が亡霊を創り上げ、執着しているため、言語はまやかしの実在で満ち満ちています」(50頁)。抽象化の危険を知り尽くしたソシュールの問いは、あくまでも具体的である。「論理的なものなのか、言語的なものなのか、等々」(51頁)。私たちもまた言語について考える時、常に同様に問いかけなくてはならないだろう。ソシュールは文法家による抽象化を強く拒否する。そして、話す主体の意識の裡にあるもの、感じられているものだけを唯一の実在と看做す。言語は根本的に恣意的であり、無根拠であり、根底には無しか広がっていない。言語について積極的に何かを語れるのは、唯一その地平に立つ時だけだろう。 したがって、普遍を目指す論理学もまた退けられる。『第三回講義』では、「《一般文法》と称するものが含まれるのは、この一般化なのですが、その一般文法は、とりわけ、言語学が論理学に密接に関係する点を含んでいます」(251頁)。すでに第一回講義で、さらに一歩踏み込んで語られていたのを私たちは知っている。「論理学は言語学との接触が最も多いように思われますが、文法とはその論理学の文法なのです。実際に言語学の中では、文法的な関心事はどこにもありません。文法は言語学に取って代われないのです」(PREMIER COURS DE LINGUISTIQUE GENERALE d'apr峻 les cahiers d'Albert Riedlinger, Pergamon, 2p)。ソシュールは二重になった法則の概念を検討し、『第三回講義』と同様に共時的法則と通時的法則とに分ける。 断るまでもなく、ソシュールは言語学者である。彼はその対象を、その単位をまずもって、あるいはただそれだけを語ろうとしたとさえ言えよう。「言語学がそれを理解しているとは言えません。というのも、誤って定義された諸単位について、議論しているだけだったからです。好き勝手にされてきた諸単位の決定こそ、最も差し迫った言語学の仕事になるだけでなく、それを行ってしまえば、すべての仕事が完遂されることになるでしょう」(48頁)。ソシュールもまた「誤って定義され」、「好き勝手にされてきた」。「言語学者がソシュールを理解しているとは言えません。というのも、誤ったソシュールについて、議論しているだけだったからです」。 どうすれば新たな亡霊たちと手を切れるのか。いわば講義の永遠の欠席者でしかあり得ない私たちは、残された学生のノートを通じ、改めてソシュールの講義に参加し、その一般言語学を理解するしかないだろう。ソシュールを単純化し、一面だけで捉えたつもりになることは、言語を単純化し、その一面だけを捉えることに等しい。ソシュールを否定する人も肯定する人も、そこで語られた言語なるものを何一つ理解していないというパラドックスが現に生じていて、ソシュールの名を冠した馬鹿馬鹿しい論争が、今もなお続けられているのである。 第二回講義は記号学の誕生で有名である。しかし、なぜか記号学は、「――社会的に記号を考える必要が認められた時――でも、私たちの意志に最も依存していると思えるものだけを、真っ先に手に入れようとする傾向が見受けられます。そして、本質を取り上げたと思いながら、その表面に留まっているのです」(31頁)。今日もなお有効な批判が、予めソシュールによってなされている。「記号の研究で最も興味深いのは、私たちの意志の及ばない範囲にある側面なのです」(31頁)。心理学ではない。記号は価値の体系であり、「記号論理的な体系=ドックにある船でなく、海上にある船です」(35頁)。にもかかわらず、汎時的な法則、記号を支配する普遍文法の探究を掲げる人までいる。 この『第二回講義』では『第三回講義』であまり触れられていなかった「通時性」や「類推的創造」についての考察が、記号学の称揚と共に積極的に語られている。すでに『第三回講義』を読まれた方なら、ソシュールの問いがどこにあったかが、より立体的に理解されるであろう。セシュエ・バイイ編の『一般言語学講義』との関連は、もはやセシュエやバイイの研究者以外には重要とは言えない。自分の問いとして言語を考え、ソシュールに至る者たちにとって、重要なのはソシュールが語りたかったことを理解することだけである。 2007年はソシュール生誕150年であり、一般言語学第一回講義から100年、ゴデルの『「講義」の原資料』刊行からちょうど50年になる。ソシュールはインド・ヨーロッパ言語学の誤りを9点挙げた。私たちは10点目の決定的な誤りとして、ソシュールへの誤解を挙げなくてはならない。天才ソシュールの思索の富みが理解されていないこと、それこそが克服しなければならない最大の誤りであり、最大のパラドックスなのである。 2006年9月29日
by ishilinguist
| 2006-11-28 23:25
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